2008年05月06日

現代の世界 第二章(1)

第二章  現代世界の秩序−唯一の超大国米国と世界
1.現代世界の秩序
(1)主権国家と自由主義市場経済体制による国際社会
(2)主権国家を基礎とした政治経済のルール
第二次世界大戦後に作られた体制
国連憲章と国連
ブレトンウッズ体制
(3)冷戦と冷戦の終結
冷戦時代
冷戦終結後

第二章  現代世界の秩序−唯一の超大国米国と世界

1.現代世界の秩序

(1)主権国家と自由主義市場経済体制による国際社会

前回講義の最後に述べたことをまとめると次の通りとなる。
まず、国際社会は主権国家を単位として構成されている。主権国間には政治・軍事・経済力等に差があり、従って、発言力・国際問題への対応力にも差がある。
第二に、自由主義市場経済体制が世界のほぼ全ての国で採用された。この採用により経済発展する国が増大した。
最後に、これら政治経済の秩序を支えるルールは、欧州で始まり欧米世界で発展した。だが、非欧米諸国の中で経済発展する国が増えるにつれ、このルールは欧州文明とは考え方の異なる文明をもつこれら諸国からの挑戦を受けている。
なお、補足として述べれば、何らかの事情で未だ主権国家として認められていない地域が存在する。パレスチナ自治地域は、その例である。そのような地域に住む住民は、主権国家において与えられる権利・義務が、当然には与えられていない。地球上に生まれた人間はすべて基本的人権をもつ、という国連憲章、世界人権宣言(1948年12月国連総会採択)、国連人権規約(1966年12月国連総会採択、1979年発効)等の考え方からすれば、そのような地域の住民も主権国家に住む住民も同様な扱いがなされるべきであるが、主権国家を単位として成り立つ国際社会では、主権国家の支配がなければ人権を保障する権利も義務も当然に与えられるようにはなっていない。

(2)主権国家を基礎とした政治経済のルール

以上が、現代世界の秩序について簡単にまとめたものであるが、もう少し詳しく見ていこう。
序章において、「冷戦終結後生まれた国際社会の枠組みは変わっておらず、世界の潮流の変化もその枠組みと秩序の中で起こっている」ので、この講義では、「冷戦終結後の世界を中心に見ていく」とした。
しかし、冷戦終結後の世界を規定する政治と経済の二つの基礎的な秩序ができたのは、冷戦終結のずっと以前である。冷戦後と冷戦中の秩序の違いは、冷戦中には自由主義市場経済体制に対する中央指令経済体制をまとまった数の国が採用していたこと、そして、この二つの異なる経済体制を採用する諸国がそれぞれまとまって東西という陣営を形成し、個々の主権国家を条約やその他の国際約束或いは実力(軍事力・経済力を背景とした政治力)で統制していたこと、である。序章においては、そのような二つの陣営が存在することを「枠組み」という言葉で言い表した。
従って、冷戦後の国際社会の枠組みと秩序は、冷戦中のそれと連続し、一部消滅し、一部が発展ないし新たに現われた、ということができる。消滅したものは、中央指令経済体制の支配性と東西陣営というものである。発展したものは、自由主義市場経済体制を取り巻く状況とそのルールである。新たに現われたものは、個々の主権国家が陣営の判断ではなく自らの判断で国益を追求しなければならなくなったという状況である。

第二次世界大戦後に作られた体制

現代の世界、つまり冷戦後の世界を規定する二つの基礎的秩序のうち、「主権国家を単位として構成される国際社会という秩序」は、17世紀以降、国際約束と慣行により欧州において形成された。
この秩序において1つの主権国家の安全は、国際社会を構成する主権国家同士のバランス・オブ・パワー(勢力均衡)によって保障される。その勢力均衡が崩れれば、戦争がおこり安全は保障されない。
第一次世界大戦は、1500万人もの死者をだした。ウィルソン米大統領は、同大戦が勢力均衡を図る国際政治に起因するとして、「集団安全保障」を提唱し、国際連盟が創設された。
しかし、第二次世界大戦は起こった。同大戦後、連合国は、「集団安全保障」を強化する形で国際連合(国連)を創設した。
第二次世界大戦後、政治的には、「主権国家を単位として構成される国際社会」という秩序を前提に、各主権国家の安全をより確実にするために「集団安全保障」という考え方の下、国連憲章という規範と国連という制度が導入された。

これに対し経済的秩序について言えば、「自由主義市場経済」という考え方は存在したが、第二次世界大戦以前はその考え方を実施する国際的環境・制度は存在していなかった。同大戦の原因の1つとして挙げられていたのは、世界恐慌に端を発する通貨の切り下げとそれに起因する保護貿易主義であった。
そこで、為替を安定させ、自由貿易を推進するために構築されたのが、国際通貨基金(IMF)・国際復興開発銀行(IBRD:世銀)・「関税及び貿易に関する一般協定(GATT)」からなるブレトンウッズ体制である。この体制は、米国を中心とする西側諸国の復興・経済発展に大いに寄与した。
第二次世界大戦後は、ブレトンウッズ体制に守られて発展していく自由主義市場経済体制を採用する国家群と、中央指令経済体制を採用する国家群が併存して国際経済はスタートした。

同時に国連は、第二次世界大戦に至る国際連盟下の集団安全保障の問題点を踏まえて、安全保障に実行力のある機能を持つことになった。具体的には、安全保障理事会の設置である。
国連の設置は、第二次世界大戦に連合国として参加した諸国によって採択された国連憲章によってなされた。国連憲章は、国連各機関の設置のみならず、国連と加盟国の行動の原則と指針を示している。
経済的には、ブレトンウッズ体制が構築された。また、第二次世界大戦末期、巨大な破壊から免れていた先進国は、米国のみといっても過言ではなかった。西欧諸国を始めとする諸国の復興開発が優先事項であった。
これらを踏まえ、米国ワシントンDC郊外のブレトンウッズで、国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD、世銀)の設立が決められた(1944年)。また、自由貿易を促進するために締結された(1947年)。この2機関と1協定をあわせ、ブレトンウッズ体制と呼ぶ。
        
国連憲章と国連

国連の強化された「集団安全保障」の骨格は、「武力の行使」の一般的な禁止と安全保障に実行力をもつ安全保障理事会(安保理)の創設である。
第二次世界大戦直後の世界には、独立国と今後独立するはずの植民地ないし委任・信託統治領が存在した。独立国は、戦勝国と中立国と敗戦国に分類できた。戦勝国は連合国として国際連合を創設し、中立国と敗戦国、更には新興独立国を国際連合に迎える立場にあった。
そのような中で集団的安全保障を確保するためには、一般的に「武力の行使」を禁止し、実際に紛争が起きた場合には、それを解決する権能と実力を国連が持つ必要がある。
その権能を国連憲章は安保理に与えた。しかし、安保理の活動が集団安全保障において実効あるものとするためには、安全保障に能力の高い国が安保理を構成する必要がある。安保理は、常任理事国と2年で改選される非常任理事国によって構成されるが、常任理事国には、第二次世界大戦の戦勝国が就任した。常任理事国の権限は拒否権に象徴されるように非常任理事国に比べはるかに大きい。この安保理の決定は加盟国に対し拘束力をもつ。加盟国が決定に従わなければ、非難の、悪くすれば国連の敵対行動の対象とされる場合もある。
実力については、常設の国連軍の創設が謳われたが、これまで創設されておらず、今後ともその見通しは立っていない。国連軍の創設には常任理事国全ての同意と協力が必要であるが、そのような同意も協力も得られなかった。冷戦に突入した後は、常任理事国自体が東西に分かれていたので当然のことであったが、冷戦後も創設への動きはない。代わりに、安保理は、その決定により問題ごとに多国籍軍を結成するなどの対応を行ってきた。
国連憲章は、「武力の行使」を一般的に禁止している。その上で、「個別的および集団的自衛権の行使」と「集団安全保障下での武力の行使」については、違法性が阻却される、としている。個々の軍事力の行使が、自衛権の発動か否かは、安保理による特段の決定や声明がない限り、各主権国家の判断に任される。第二次世界大戦以降、多くの武力紛争が起こっているが、内戦と朝鮮戦争(ソ連欠席の下の安保理決定により国連軍(上記の常設国連軍とは違う)結成)を除けば、大抵が個別的、あるいは集団的自衛権の発動として説明がつく。

ブレトンウッズ体制

第二次世界大戦が終了した時点で、米国の経済力は世界に抜きんでていた。ブレトンウッズ体制の金融部門をさすIMF体制は、固定相場を基本とし、為替レートの変更は「基礎的不均衡」が存在するときのみ認められ、短期的な経常収支赤字はIMFからの一時融資で対応し、経常取引に対する為替制限は認めない、というものであった。この体制は1970年代までまがりなりにも続いたが、それは、米国が世界の銀行としての役割を果たしたからであった。金保有に裏打ちされた米国ドルがこの体制の基軸通貨とされ、IMF・世界銀行からは、西欧、日本に復興に必要な資金が供給され、両者の復興と発展に大きな役割を果たした。
世界貿易は、1946年から95年にかけて年率6%の拡大を続けた。この順調な拡大
に大きな役割を果たしたのが、「関税と貿易に関する一般協定(GATT)」体制である。1947年当初、23カ国の加盟であったのがその後継体制世界貿易機関(WTO)が生まれる直前には128カ国まで増大していた(日本は1953年加入)。数量制限の禁止と最恵国待遇(GATT締約国がある締約国の財の関税等に対して与えた待遇をすべての締約国の同一財に対して即時無条件に与えること)の付与を基本原則とし、8度の関税引き下げ交渉(ラウンド)を実施した。最終的にその交渉から、WTOが誕生した。
世界全体を見ると、このようなブレトンウッズ体制の中で経済発展していった、自由主義市場(資本主義)経済体制の諸国グループに対する形で、中央指令(社会主義)経済体制を採用した諸国のグループが存在した。

(3)冷戦と冷戦の終結

上記のような基本的な政治・経済ルールを踏まえ、第二次世界大戦後の世界を概観すると次のようになる。

冷戦時代

米国を盟主とする西側諸国とソビエト連邦共和国(ソ連)を盟主とする東側諸国とに別れて両陣営が政治的に対立していた時代が冷戦時代である。この陣営を細かく見ると必ずしも中央指令経済体制を採用した国が全て東側に属していたわけではない。ユーゴスラビア、インド、中国がその例として挙げられる。東西陣営に属さないグループとして非同盟諸国が生まれたが、ユーゴスラビアやインドは、同諸国のリーダーであった。中国は、ソ連との国境紛争を起こすなど、政治勢力として独立した部分をもっていた。
冷戦は、国連安保理が決定を下すことを慎重にさせた。東西間の均衡に関わる問題は、安保理で扱われることはほとんどなかった。冷戦がいつ終了したかについては様々な見方があるが、有力な意見はベルリンの壁の崩壊(1989年11月)とする。そこで1989年の末を境に、その前後の安保理決議の数を比較すると、安保理創設後89年末まで44年間の安保理決議数は、646本であるのに対し、90年以降07年末まで18年間の決議数は1048本となる。89年までは、年平均14、15本であったのが90年以降は年平均約58本である。実際、ベトナム戦争に関する決議もソ連のアフガニスタン侵攻に関する決議も1本(安保理決議622:アフガニスタンとパキスタンに国連が職員を派遣し状況を安保理に報告するというもの)を除いて一切ない。
東西間の対立を象徴し、対立を冷戦たらしめた主要因は、核兵器開発を中心とする軍拡競争である。両陣営間、特に米ソ間では、「恐怖の均衡」と呼ばれるバランス・オブ・パワーを生み出した。
ジョセフ・S・ナイ・ジュニアは、その結果5つの政治的影響をもたらしたという(「国際紛争」第5版p171-172)。第1に限定戦争の概念が復活した。朝鮮戦争やベトナム戦争が例として挙げられる。第2に、危機が国際政治上の決定的瞬間となった。ベルリン危機、キューバ・ミサイル危機、70年代初めの中東危機は、戦争と同様の機能を果たし、軍事力における真の力の相関関係を示す機会になった。第3に核兵器による抑止が鍵を握る戦略となり、あらかじめ軍事力を整備して恐怖を醸成することが死活的重要性を帯びるようになった。第4に超大国間に慎重さに基づいた事実上の連携ができた。キューバ危機後米ソ首脳間に設置されたホットラインはその象徴である。第5にほとんどの当局者によって戦時には使用不可能であるとみなされるようになった。その破壊力のみならず、使用は汚名をともなうからである。
このような政治状況の下に両陣営の線引きを巡る争いが起こっていた。朝鮮戦争、ベトナム戦争は、ハンガリー動乱(1956年)、プラハの春とワルシャワ条約機構軍チェコ進攻(1968年)、ソ連軍のアフガニスタン侵攻などである。
新しく独立したアジア・アフリカ諸国に対する東西からのアプローチも援助という形で行われた。新興アジア・アフリカ諸国は、これに対して政治的には非同盟という姿勢で臨むことが多かったが、実際には軍事・経済援助は東西両陣営から行われた。
例えば、アフガニスタンでは1960年代、米ソ両国の経済支援合戦は激しく、米国が同国東部の幹線道路を舗装すれば、西部はソ連が行なった。また、エジプトは、非同盟諸国の勇を自認していたが、ナセル大統領時代(54-70年)は、ソ連がアスワンハイダム建設などの経済支援や軍事支援を行っていたのに対し、サダト大統領時代(70-81年)になると自由化を進め西側に門戸が開かれるとともに、イスラエルとの平和条約締結後は、米国から軍事を中心とした支援を受けるようになった。
このような中、西欧・日本を含む西側諸国は第二次世界大戦の破壊から復興し、空前の経済的発展を遂げた。これには、上記に挙げた、ブレトンウッズ体制による国際金融の安定と確固たる自由貿易体制が基礎になっている。この自由貿易体制は、日本の発展のみならず、70年代から始まる東アジア諸国の高度経済成長にも恩恵をもたらした。NIEs(New Industrial Economies:韓国、台湾、香港、シンガポール)、ASEAN諸国、中国と続く東アジア諸国の発展は、自由主義市場経済体制の採用と輸出指向型の経済政策が基礎となっているが、自由貿易体制はその体制と政策を生かす環境を与えた。
これに対して、東側諸国、例えばソ連では50年代の年間10%を超える成長率をピークに緩やかに低下、70年代には急速な停滞を見せた。理由として挙げられているのが、経済レベルの高度化・複雑化とともに中央指令の計画経済では対応できなくなったこと、軍事部門優先の投資、賃金の悪平等に伴う労働者の士気低下、コスト削減の概念なく資源配分の最適化が妨げられたことである(「世界経済読本」第7版p218-219)。
このような経済停滞は、東側諸国のみならず、中央指令経済体制を採用する諸国に多かれ少なかれ起こっており、前述のエジプトの自由化政策採用、中国の「改革解放」やベトナムの「ドイモイ(刷新)」をスローガンとする市場経済主義の採用など、中央指令経済体制からの離脱ないし修正が70年代、80年代に見られるようになっていた。

冷戦終結後

 なぜ冷戦が終結したか、についてはここでは取り扱わない。先に挙げたナイは、前記著で「封じ込めの成功」「帝国の過剰拡張」「80年代の米の軍拡」を説明した上で、直接的(「ゴルバチョフという個人」)、中間的(「リベラルな理念の浸透」と「帝国の過剰拡張論」)、深層的(「共産主義イデオロギーの衰退」と「ソ連経済の失敗」)という3種類の原因を論じている(前記著p163-168)ので、これを参考にして欲しい。

ここでは、冷戦終結後世界がどう変わったかを述べる。

まず挙げられるのが、ベルリンの壁崩壊後玉突き式に起こった、東側陣営欧州諸国の体制変換とソ連の崩壊である。東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ユーゴスラビアは、相次いで社会主義を放棄し市場経済体制に移行した。モンゴルにも同様のことが起こった。ソ連は、これら諸国の体制変換を押しとどめる意思も能力もなく、91年8月の保守派クーデターの失敗、91年12月の崩壊へと突き進んでいった。結局ソ連崩壊後15の共和国が誕生したが、最大のロシアを始めとして各国とも市場経済体制に移行した。
これを受けて、すでに冷戦崩壊以前から進んでいた市場経済体制の採用が更に加速化された。エジプト、中国、ベトナムは前述したが、これに中国と並ぶもう1つの人口大国インドが加わった。明らかに市場経済体制を採用していない国は、キューバと北朝鮮のみとなっていった。

ソ連の崩壊と消滅は、名目的にも超大国は1つ、つまり米国だけになったことを明らかにした。実質的に超大国は1つであることを明らかにしたのは、東側陣営欧州諸国の体制変換をソ連が止められなかったであるが、それはソ連崩壊後のロシアの様子を見れば明らかだった。
92年1月筆者は、中東和平多国間交渉会議のためモスクワにいた。この会議は、米国とロシアの共催であった。しかし、そこで目にしたのは、米国人外交官に何をしたらよいか指示を仰ぎ、同外交官に渡された会議発言原稿を英語で読み上げるロシア外交官の姿であった。
94年8月から95年12月まで、筆者は外務省軍備管理軍縮課の首席事務官を務めた。当時、軍備管理軍縮課は、「スローガンの軍縮」から「実践の軍縮」を提唱し実行しようとしていたが、「実践の軍縮」の柱の一つが旧ソ連の核兵器解体支援であった。ソ連の核兵器は、ロシア、ベラルーシ、ウクライナイおよびカザフスタンの4カ国に配備されていた。ソ連の後継国家はロシアである。全ての核兵器はロシアに引き継がれるべく、他の3カ国の核兵器はロシアに運ぶか解体されなければならない。それはロシアの責任で行われるべきことであるが、実施しようにも資金がないのである。資金がなければ、核兵器を維持できない。ましてや解体など、というわけだ。
後に現実のものになったが、旧ソ連の原子力潜水艦解体支援も案件としてあがっていた。上段の話とこの原子力潜水艦の話は、ソ連の後継国ロシアが1990年代半ば、もはや核兵器を使う状態になかったということを示す。

国連の集団安全保障に果たす役割はどうなったであろうか。先に89年以前の安保理決議の成立数とその後のそれを比較した。冷戦後明らかに安保理では、決議が採択され易くなった。米国を含む20カ国以上が実際に出兵した湾岸危機・戦争では、90年8月から91年3月までの短期間に矢継ぎ早に安保理決議が10本以上採択されている。
これは、冷戦構造が崩壊して安保理中心の集団安全保障が機能し始めた、ということであろうか。筆者には単純にそう思うことはできない。確かに、安保理外で世界の平和と安全の問題が決まっていくことは少なくなってきた。しかし、安保理の構造自体、つまり常任理事国と非常任理事国によって構成され、常任理事国が拒否権を含む非常に強い権限が持っていることには変わりはない。常任理事国は、世界の安全と平和に責任を持っているが、同時に自国の利益を最優先に考える主権国家でもある。常任理事国間で利害が異なれば、拒否権が発動され必要な安保理の決定が行えない場合も想定される。
湾岸危機・戦争の際、或いはアフガニスタン介入の際、全ての常任理事国を含む国際社会は、共同歩調をとることができたが、イラク戦争の場合はそうではなかった。その他北朝鮮、イラン、ミャンマー、コソボ問題など常任理事国の共同歩調を妨げる問題は多数存在するし、中国のチベット問題など、常任理事国の問題であるがために議論さえされない問題もある。
以上のような状況下、各国連加盟国は、どのように行動すべきか。国際問題の決定を陣営の判断にゆだねることができたのは、東西陣営が存在し、自国の国益が陣営の益に包含されえたからである。各加盟国は、自らの国益は何か、国際社会における位置はどこにあるかを確認し、その国益にとって各国際問題がどういう影響を与えるか、によって態度を決定するようになっている。日本の外交もそのような作業がなされて実行されているであろうことは言うまでもない。
   

参考文献
1.「国際紛争」ジョセフ・S・ナイ・ジュニア著、田中明彦/村田晃嗣訳、2002有斐閣
2.「世界経済読本(第7版)」宮崎勇/丸茂明則/大来洋一編、2002東洋経済新報社
3.「外交と国益」大江博著2007日本放送出版協会

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