2007年03月16日

カブール便り(番外編:アフガニスタンの仲間たち)

 今、カブールに来ている。既に6日が経った。JICAの保健医療セクター評価調査の仕事できていて、カブール市内の病院や診療所を見たり、保健医療関係の政府役人や支援国や機関、或いは支援NGOの関係者を訪ねては話を聞いて回ったりしている。
 カブール市内は、車の窓から見る限り活気があり、私がいた2年半前より車や人の動きも活発になったように見える。しかし、こちらにすむ人々に聞くと、一方で大金持ちが生まれ、他方でその日の生活に事欠く人々が急増している、とのことだ。実際保健医療セクターの調査でも、初期診療が全国民82%をカバーという公式発表と違い、実際には人口の半分強しか受けられていない、とか、大抵の州は外国ドナーがNGOを使って医療サービスを提供しているが、300万人の人口を抱えるカブール市では、予算のない保健省が直接担当していて、しかもその予算は診療所の家賃と光熱費に消えてしまい、肝心の診療器具や薬に回らず、実質的診療がほとんどできていない、とかの話が出てきた。ある病院で見た新生児は、4ヶ月なのに、生まれたばかり変わらない小ささで、お乳も自分で飲めないほど衰弱していた。この子は、病院に連れてこられただけでもましなのかもしれない。
 そんな中で、嬉しかったのは、アフガニスタンの復興のため頑張っている多くの日本人の姿を見られたことだ。

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2006年08月17日

カブール便り(その22・最終回)2004年11月

 カブール便り最終回は、ニューヨークからの発信となった。アフガニスタン支援における私の仕事の三つの柱のうちの一つ、道路復旧事業と安全対策について書いた。現状からすると結論は楽観に過ぎたのかもしれない。

K様、

 ニューヨークに来て二ヵ月半が経ちました。如何お過ごしでしょうか。
 この間、ニューヨークでは秋になり木々と言うか森が紅葉し、今は冬に向かって着実に進みつつあるという印象です。
 一方、アフガニスタンでは、10月9日に大統領選挙が行われ、紆余曲折はありましたが、ほぼ米大統領選挙結果がわかるのと同時にカルザイ大統領の当選が公式発表されました。

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2006年08月16日

カブール便り(その21)

復興支援を行なおうとしても、治安が悪ければできない。また、法の支配がない場所に支援を行なっても有力者や一部のグループが潤うだけである。法の支配を確立する基礎として、日本はDDR、つまり武装解除・除隊・市民社会への復帰を実現すべく、支援した。カブールで書いた最後のカブール便りは、DDRについて記す。

K様、

カブール便り(その20)で長々と述べた上での結論は、「現場でどんなに頑張っても東京の理解と支援がなければプロジェクトは完結しない。」ということでした。せっかく現場が知恵を絞って統一プログラムを作っても、それを財政的に支えうるスキームがなければ、実施はできません。

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カブール便り(その20)2004年8月8日

 アフガニスタンへの日本の支援を振り返る。カブール便り(その20)は、緒方イニシアティブを取り上げた。

K様、

 今回から三回にわたって、私が当地に赴任するに際して実現の課題とした三つの支援プロジェクトについて振り返ってみます。第一回目は、緒方イニシアティブです。
 緒方イニシアティブのアイデアは、2002年6月、緒方貞子アフガニスタン支援総理特別代表の二度目のアフガニスタン出張から生まれました。

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カブール便り(その19)2004年8月7日

 私の離任時期も近づいてきた8月初旬、私の仕事を振り返ってみた。カブール便り(その19)。

K様、

 この三ヶ月、カブール便りは休刊状態でした。申し訳ありません。帰国休暇に引き続き、離任前の準備等でお便りを差し上げることができませんでした。
 離任について申せば、7月20日、在アフガニスタン日本大使館から在ニューヨーク日本総領事館への転勤発令を受けました。8月22日にカブールを発って日本に立ち寄った後同月28日にニューヨークに赴任します。
 思い起こせば、日本を出発する前、高校時代の現代国語の恩師に、赴任前の気持ちを次のような短歌に込めて送りました。
 「アフガンの 仏陀のお顔 隠れても 日本の支援 国の礎」

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カブール便り(その18)2004年5月8日

 否定的な見方をしていた日本のNGO・Aが、地雷回避教育で大きな仕事を成し遂げた。その話を聞いた時、不覚にも感動の涙が出てきたことを思い出す。カブール便り(その18)は、NGO・Aの素晴らしい働きについて書いた。

K様、

 一昨日、アフガニスタンで活動する日本のあるNGO(以下NGO・Aとします)の方々が見えて、活動状況について報告してくれました。

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カブール便り(その17)2004年5月7日

 2004年春、アフガニスタン支援ベルリン会議、アフガニスタン開発フォーラムが開催され、同国復興へ向けての国際社会の支援が再確認された。しかし、開発も法の支配確立も遅々として進まないのが現実であった。そんな中で書いたカブール便り(その17)である。

K様、

 もう5月になったというのにしばらくの間カブール便りを書けませんでした。ご無沙汰をお詫び申し上げます。
 カブールの街では、4月後半以来薔薇の花が咲き誇っています。大使館敷地内でも、私の宿舎の庭でも赤やピンクが目を引きます。今朝、今の窓を開けるとウグイスと思われる鳥の鳴き声も聞こえてきました。カブールはまだ春のようです。

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カブール便り(その16)2004年4月16日

 イラクにおける日本人人質事件は、アフガニスタンで働く日本人の安全対策と心構えに警鐘を鳴らした。しかし、被支援者との間に真の信頼関係を築くことが真の安全をもたらすという考え方からは、安全対策はとっても、それを越えてやるべきことはある。カブール便り(その16)では、そのようなことを考えた。

K様、

昨日拉致が明らかとなって一週間ぶりに三人の邦人人質が解放されました。まずは、とっても良かった。解放された三人、ご家族、支援者の皆さんに「おめでとうございます」の言葉を贈りたいと思います。そして、解放に尽力された日本、イラク、アラブの皆さんに感謝したいと思います。更に、新たに拘束されたと思われる邦人二人のために休むひまなく情報収集その他に努力している上村臨代以下の在イラク日本大使館の同僚達にエールを送りたいと思います。

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カブール便り(その15)2004年3月30日

 ペシャワール会の灌漑用水路建設。一つの小さなNGOがここまで出来るのか!カブール便り(その15)は、その驚きを書いた。

K様、

 ジャララバードへの出張から帰って、もう二週間もたってしまいました。今日は、お約束のペシャワール会用水路掘削工事現場見学についてお話しします。

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カブール便り(その14)2004年3月19日

 草の根無償資金協力は、小規模だが即効的で、やりようによっては現地のニーズに十分あうだけでなく、現地との協力の下に我々の意思も伝えられる協力方式である。カブール便り(その14)は、そのような支援の様子を伝える。

K様、

 今週は、草の根無償資金協力によるプロジェクトの完工式や着工式のために一泊二日でジャララバード、日帰りでガズニに行ってきました。ジャララバードは、日本で言うともう初夏の気候で、ガズニの方は杏の花が咲き誇って春らしさが伺えました。両地の共通点は、どちらも幹線道路を除き道路が舗装されておらず埃っぽいことと、会う人皆が口々に復旧・復興を求めていることでした。

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カブール便り(その13)2004年3月19日

 カブールの衛生状態は、悪化の一途である。2004年3月初め、大使館職員の多くが食中毒になった。井戸水の汚染が原因である。カブール便り(その13)は、その顛末を描写する。

K様、

 先のお便りで私が食中毒にあったことに触れました。今回は、こちらの衛生状態について書いてみます。

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カブール便り(その12)2004年3月10日

 カブール便り(その12)は、日本の70年前の支援を念頭に、先人の築いた礎の上に今の支援があることを感慨をこめて書いている。その後2年たった今、その礎を日本の支援は汚してはいないだろうか。

K様、

 しばらくお便りせずに申し訳ありません。10日ほど前に食中毒に合い、再発防止の対策などを施した後は、ものを書く気が起こらず、日々の仕事と体の回復に努めていたのです。しかし、この2週間というもの、カブールでは日に日に春らしさが見られるようになり、今や大使館の庭では、桜に似た杏の花が満開です。もう10日も前になりますが、食中毒の時期に出張したカンダハールは日中の日差しが強く、屋外での式典に出席した私の鼻の頭は真っ赤になってしまいました。

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カブール便り(その11)2004年2月20日

 三週間の休暇を終えて、カブールへと帰任する飛行機の中で国連アフガニスタン地雷対策センターに勤務するKさんから聞いた話は、日本の支援の意義を再確認するものだった。また、Kさんの活躍は、日本の若者に将来に希望を持たせるものであった。カブール便り(その11)は、地雷対策とその支援についてである。

K様、

 今カブールの街から見る周囲の山々が、十日前に降った雪に太陽の光が当たり、美しく輝いています。五日前帰任途中に飛行機から見たアフガニスタンの中央山地もパキスタンとの国境付近の山々も全く雪に覆われていましたから、今年の夏も干ばつの被害は少ないのではないかと期待させます。
 カブールへの帰任便に乗り合わせたのは、国連アフガニスタン地雷対策センター(MACA)に勤めるKさんでした。Kさんは、28歳。日本の大学を出て英国の大学で平和学を学び、東京で予防外交に関わるNGOに勤めた後、コソボで小型武器回収業務を行う国連機関に勤め、一昨年八月からMACAで勤務しています。Kさんは、ジュネーブで開催された対人地雷全廃に関するオタワ条約締約国中間点検会合に出席した帰りでした。

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カブール便り(その10)2004年1月21日

 2004年正月、天木元駐レバノン大使が書いた「さらば外務省」を読んだ。カブール便り(その10)はその感想である。私は、同元大使の「総理宛意見具申」なるものを読んでいて、情勢認識・分析を全く評価していなかったが、それよりも何よりも外交を支えているノンキャリアや補助職員に対する蔑視に怒りを覚えた。私には、彼らの支えなしには良い仕事はできない、という確信があったからだ。

K様、
 
 昨年秋帰国したとき話題になっていた天木元駐レバノン大使の「さらば外務省」を読みました。カンダハールが危険だとしてカブールに撤退させられたJICAコンサルタントの一人が、退屈しのぎに暮れから正月に読んだものを私に貸してくれたのです。私は、天木元大使が書いた意見具申も読んでいましたし、外務本省から送られてきた天木元大使の記述への反論を含む対外応答要領も目を通していたので、この本の性格を分かったつもりになっていました。

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カブール便り(その9)2004年1月20日

 2002年1月20日、東京高輪のあるホテルの一室でアフガニスタン復興支援NGO会議が開催された。前日からこの日の未明にかけてのドタバタ騒ぎは、次の日からの騒動を考えれば、単なる序章に過ぎなかった。
 二年たった2004年1月20日、私は偶然にもアフガニスタンで働く日本NGO関係者との懇談会をもった。私は、懇談会を、復興支援における日本NGOの働きを振り返る場とした。東京で外務省の決定を覆させただけの力を、日本のNGOは、アフガニスタン復興支援においても発揮しているのか?私はそれを確認したかった。以下は「カブール便り(その9)」である。

K様、

 ふと気づくと、今日1月20日はアフガニスタン復興支援NGO会議から丁度二年目にあたります。更に今日は第三火曜日で定例のNGO懇談会が開かれました。偶然と言えば偶然ですが、即席でこの懇談会をアフガニスタン復興支援におけるNGOの働きを振り返る場としました。

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2006年07月13日

カブール便り8(2004年1月19日)

 2004年1月18日、帰任した大使に臨時代理大使としての大使留守中の報告を行った。ロヤジルガが終了し、大使帰任までの間、私は何人かの大臣達に会い、ロヤジルガの結果についての所感を聴取していたが、一方で大臣間、諸派間に隙間風が吹き始め、他方で憲法に基づく選挙、正式政府樹立の道程の前には、様々な課題が横たわっていた。この報告は、その後、これまでの日本の政策に生かされていたのであろうか。或いは、無視されたのか。カブール便り第8回目。

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カブール便り6(2004年元旦)

 アフガニスタンの憲法ロヤジルガは、年を越しても終わらなかった。終盤を迎えた憲法制定努力は、諸派の分裂の様相を見せ始めていた。カルザイ大統領を支えるため、あからさまに介入する米国。それを支える国連。ごり押しでよいのか。私は、少数派の代表と会い、彼らの動きと話の下に、米、国連に彼らをアフガン人の和解のトラックからそらさないようにと注意を促した。彼らが、トラックの外に出ることは、タリバーンが攻勢に打って出てきた中、アフガン諸派の更なる分裂へと導くのだ。

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カブール便り5(2003年12月31日)

 アフガニスタンでは、50代、60代のベテランが、その技術力と気力で、アフガニスタン復興支援に尽力していた。2003年暮れ、そんな壮年男女の生き様を久留米のK氏に書き送った。ジジィ、ババァと彼らのことを呼んだのは、失礼極まりないことでした。あらためてお詫びします。

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2006年07月09日

カブール便り4-カンダハール3(2003年12月14日)

 2003年12月、私は、二度に亘ってカンダハールに行った。カンダハールには、米国の影響力が増し、対テロ軍事作戦に加え、PRT(Provincial Reconstruction Team)やUSAID(米国際開発機構)が大量の資金と人員で活動を始めていた。米国が前面に出る支援は、国際社会の支援に影を差す。そう思いながら、カンダハール州知事と同州の開発について話し合った。カンダハールシリーズ第三弾である。

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2006年07月08日

カブール便り3-カンダハールの巻2(2003年12月12日)

 カンダハールへ向かう飛行機には、ドーセットBBC記者が乗り合わせていた。彼女は、治安状況の悪化で日本が道路復旧工事を投げ出したというカブールでの噂を聞きつけ、その現場を見たがっていた。この噂を否定しなければならない。彼女を工事現場に連れ出すことにした。カンダハール・シリーズ第二弾。BBC記者の報道は、後日ラジオで全世界に伝えられた。2003年12月の出来事である。

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カブール便り(その2)2003年12月12日

 2003年12月、アフガニスタン東南部地域の治安悪化のため、カンダハールのJICA関係者のカブール引き上げが実施された。だが、幹線道路の復旧工事を実施する日本人はカンダハールに20人弱残っていた。彼らの安全対策はしっかりしたものであったが、こういう時こそ、大使館員が出向く必要がある。館員は交代で、カンダハールに出張した。私もその第二陣として出かけた。以下は、三回に分けて送るカンダハールシリーズの第一弾である。

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2006年07月02日

カブール便り1(2003年12月初)

 イラクにおける同僚二人の死は、全く「ひとごと」ではなかった。
 2003年12月から翌年11月まで22回にわたって、福岡県久留米市に住むKさんに書き送った「カブール便り」の一回目は、雪に覆われたヒンズークシの山々の情景から始まる。

K様、
 12月に入りました。カブールの町から見るヒンズークシの山々はすっかり雪に覆われ晴れた青空に似合っています。この白と青のコントラストのようなすがすがしさが、地上の人間世界にもあればよいのですが。
 カブールに戻って早々、飛び込んできたのはイラクにおける同僚の死の知らせでした。

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